入選作品 五千円

彼女の本棚

読んだ本・『薬缶(『花盗人』より)』乃南アサ

書いた人・星子

 私には、読書家の母がいた。今はもう、母ではない。



 彼女は読書家で、特にミステリーやサスペンス小説を好んだ。私は幼いころ、母の蔵書をこっそり読むのが好きだった。なぜかって?おそらく小学生には刺激が強いと思ったのだろう、勝手に本棚を漁ることを禁じたからだ。彼女が出かけているわずかな時間で読み切れるよう、私は短編集を中心に読み耽った。その中の一篇が、私の心をぐちゃぐちゃにかき乱すとも知らずに。



 「薬缶」という作品だった。(読み始めたときは薬が入っている缶だと勘違いしていたが、すぐにお湯を沸かすヤカンのことだと気づいた。)

冒頭は、瑞恵と妙子の会話から始まる。学生時代からの友人である二人は、お互いに結婚して数年が経っており、話題は夫についてのものだった。

──殺そうなんて考えたことはないけれど、死んでくれたらなあって思うわ

悪戯っぽい顔で、妙子はそう言った。



 私は、どきりとした。読み進めると、夫とはうまくいっているようだった。喧嘩もしなければ、言い合いにもならない。浮気もしないし、出張帰りにはお土産を欠かさない。しかし、だからこそ刺激が足りないのだという。妙子曰く、生温いお風呂に浸かっているみたいな感じ。

「贅沢な悩みね」瑞恵は口の端に笑みを浮かべる。



 私もほんとうにそう思った。私の両親は不仲で、毎日何かがリビングを飛び交っていた。服やティッシュ箱ならまだいい。皿が飛んでくることも度々あった。夫婦喧嘩終了の合図は、思い切り締められるドアの音。ネジが外れて開けづらかったのをよく覚えている。トイレに避難していた私は、かすかに聞こえる彼女の嗚咽を聞きながら、こう考えていた。ケンカしてるのは今だけ、お父さんもお母さんも、きっとなかよくなる。



 それを見事にぶち壊したのが、瑞恵の行動であった。

妙子と別れ、帰宅した瑞恵。夫は先に帰宅していたものの家事はせず、だらだらとテレビを見ていた。「飯、早くして」瑞恵のほうを見向きもせず、ナイター中継に夢中である。余所行きのワンピースのまま、瑞恵はお茶漬けをつくるため、薬缶を火にかけた。しばらくしてお湯が沸き、瑞恵はかたかたと鳴る薬缶を持ち上げる。目の前には、トランクス一枚で寝そべる、自分を奴隷のようにこき使うやさぐれた夫。

──死んでくれたらなんて思ったことはない。いつだって私は殺したいと思ってるわ。

瑞恵はぼんやりと遠くを眺めながら、ゆっくりと、夫の耳に向かって薬缶を傾けた。



 私の母であったころ、彼女はどんな思いでこの本を読んだのだろうか。

そして、瑞恵と同じことを思っていたのだろうか。私は怖くてたまらなかった。もしも私がごく普通の、それこそ妙子夫妻のような両親を持っていたら、この作品はほんの少し心にやけどを残す程度だったはずだ。でも、そうじゃない。子供は親を選べない。心に大やけどを負った私にできたことは、出来る限りいい子でいること、両親が口論になりそうなときは話題を反らすこと、そしてただひたすらに祈ることだった。瑞恵のような結末だけは避けたかった。心にやけどを抱えたまま、私は多感な学生時代を過ごすこととなった。



 結論から言うと、小説のように最悪の事態にはならなかった。離婚して家を出ていくとき、「これからは、お母さんって呼ばないで。私のことは、名前で呼んでね」。そう言って、彼女は最低限の荷物を持って、再婚相手のもとへと向かった。一昨年のことである。その頃には、私は社会人になり、自分の稼ぎで好きな本を手に入れることができたため、彼女の蔵書とは疎遠となっていた。



 この文を書くために、彼女が残していった本棚を見て、唖然とした。 

本棚の半分は、自己啓発の本で埋め尽くされていた。夫との上手な付き合い方、疲れた時の気の持ちよう、不安を和らげる方法…彼女もきっと、怖かったのだ。家族で唯一血の繋がっていない存在が、夫なのだから。

本棚の奥に、「薬缶」が収録されている短編集を見つけた。埃を被ったその本を読み返して、ページ数の少なさに驚く。こんなに短い作品に、私は衝撃を受けたのか…。巻末の初出一覧を見ると、私が生まれる前に綴られた短編だった。今の時代なら、薬缶じゃなくて電気ケトルかな。そう思えるくらいには、あの日のやけどは治りつつある。時の流れという名の薬が効いたのであろう。





たまに、心の中の幼い私が「おとうさーん」「おかあさーん」と泣き叫ぶことがある。

そんなときは、私は良い勉強をしたのだ、と自分を宥めるようにしている。怖かった、それだけでは前に進めないし、私だけ立ち止まったまま彼女は再婚という次のステージに進んでいるのも悔しい。この作品を、過去の傷から昇華させられるのは、私しかいない。



心の奥深くに刺さり、感情移入できた作品があること。

それがたとえ負の感情だったとしても、それは人生においてかけがえのない財産であり、自分次第では羅針盤にだってなると信じている。


花盗人 (新潮文庫)
花盗人 (新潮文庫)
posted with amazlet at 18.07.02
乃南 アサ
新潮社
売り上げランキング: 406,147