奨励作品 一万円

寂しい時間の使い方

読んだ本・『1973年のピンボール』村上春樹

書いた人・たまにゃん

 部屋に一人でいるときにぬいぐるみに話しかけるのと、サボテンに話しかけるのでは、どっちが寂しいかな。まだ大学生だったころ、そんなことを友人と冗談交じりに話したことがある。結局どういう結論になったのかは記憶にないのだけれど、いずれにせよ寂しい時間の使い方なのは間違いない。

 この本もまた、寂しい時間の使い方をめぐる話である。これはピンボールをめぐる物語だ。レバーを引いて、フリッパーを操作し、ボールを弾く、ただそれだけの単純ながら奥が深いこのゲームは、言うまでもなく一人で遊ぶゲームだ。誰と協力するでもなく、誰と会話するでもない。そんなピンボールについて書かれたこの物語は、つまり、寂しい一人ぼっちの物語である。



 物語の前半では、主人公が仕事も独身生活もそれなりに順調で、そして波風の立たない生き方をしている様子が描かれる。しかし中盤に入り、同僚の女性に「本当に寂しくないの?」と尋ねられるところで、物語にピンボールが登場する。「その秋の日曜日の夕暮れ時に僕の心を捉えたのは実にピンボールだった。」本当に寂しくないのかという問いかけが、主人公の心に、かつて没頭したピンボールの記憶を思い起こさせるのだ。「3フリッパーの「スペースシップ」……、僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。」

 そして主人公は、熱心にプレイしたその思い出のピンボール台を探し始める。通っていたゲームセンターはもう無くなっていたが、ピンボール台はかろうじてスクラップ化を逃れて、あるコレクターの手で保管されているということを突き止める。ついに主人公がその台との再会を果たす、その場面で行われる「会話」は、この小説のクライマックスであり、それでいてとても物悲しい。そこで交わされる「ありがとう」と「さようなら」は、本当に心が通じ合った二人の間での、親密さと思いやりのこもったものであるように思えた。

 とはいえ、これはちょっと落ち着いて考えてみるとなんとも寂しい話ではないだろうか。要は一人の大人がピンボールを前に独白しているだけである。彼はあくまで一人っきりなのだ。そこには彼以外、ほかには誰もいない。



 しかしたぶん、そう結論してしまうのは早計だ。実はこの小説には、もう一人の重要な登場人物がいる。「これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある」とはっきり書かれているように、主人公の友人の「鼠」と呼ばれる人物が登場する。この二人は作中においては全く交わることがないのだが、その姿はとてもよく似ている。

 鼠はジェイというバーテンダーのいるバーに通い、彼と様々に話をする。でも実のところ、あくまで語りかけるのは鼠であり、ジェイは鼠の言葉をただひたすらに受け入れている。バーにおける鼠とジェイの会話は、実は鼠の独白なのだ。そして鼠は何度も迷い悩みながら、最後には暮らしている街を出て行く決心をする。彼がそのことをジェイに告げるシーンもまた、もう一つのクライマックスと言っていいと思う。「もう来ないのかい?」「そのつもりだよ。辛くなるからさ。」「またいつか会おう。」二人の会話は、胸が締め付けられる切ないやりとりだ。

 おそらく、語りかける相手が人間かモノかというのは、きっと重要な問題ではないのだと思う。それが誰であれ(何であれ)、他の誰か(何か)を通して自分に正直に向き合うことで、人は自分自身との間に折り合いをつけることができる。そういうことなのだ。

 主人公がピンボール台と交わした「ありがとう」と「さようなら」は、主人公が自分自身と向き合って発した言葉なのだろうと思う。それは、それまでの自分に向けての「ありがとう」であり、「さようなら」なのだ。同じく鼠がジェイに語った言葉も、それまでの自分との決別の覚悟であったのだ。そして、それでいてなお「いつかまた会おう」と言う言葉が欲しかったのだろう。

 

 きっとぬいぐるみに語りかけるのでも、サボテンに語りかけるのでも同じことだ。そうやって寂しさに向き合うことが、いわば寂しい時間を丁寧に使うことが、前に進むために大事なことのだろう。あるいは、自分の声で語りかけるかわりに、一人で静かに本を読むのでもいいかもしれない。本を読んでいて、自分が本当に語りたかった言葉に出会うことは、決して珍しいことではないから。

 そう、僕たちは一人きりで本に向き合う。そして、その本の中に自分の気持ちとか、悩みとか、苦しみとか、そういうものに応えてくれる人物、やりとり、セリフ、読み飛ばしてしまいそうなほど些細なのに胸にささる一文といった、そんな何かを見つけたとき、しみじみと心が震えて、そして、なぜだかわからないけれど明日も頑張ろうという気持ちになる。みんなそうではないだろうか。

 僕は読書のそういうところが、改めて、とても好きだと思った。


1973年のピンボール (講談社文庫)
村上 春樹
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