入選作品 五千円

セックスと死に対する13年後の解釈

読んだ本・『ノルウェイの森』村上春樹

書いた人・いめぎよれこ

『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』という本の中で、村上氏は『ノルウェイの森』について、「セックスと死のことしか書いていない」と言及している。


私は37歳の主婦である。著書を初めて読んだのは13年程前、社会人になって間もなくの頃だった。当時、“死にたくなるようなセックス”を繰り返していた私は、著書の中で直子の死に興味を持った。直子は主人公ワタナベの恋人で、以前はワタナベの親友(キヅキ)の恋人だった。キヅキは高校時代に自殺し、残された二人は卒業後に交際した。直子は実姉も自殺で失い、深い心の傷を抱え精神的に病んでいた。やがて療養施設に入り二人に距離が生まれたが、ワタナベは“直子を救いたい”という使命感を持ち続けた。


実は13年前の私も又、癒えない傷を抱え、生きることに疲れていたので、恋人に愛されながらも自殺した直子に理想の姿を投影した。私はヒステリックで威圧的な母親に、父親の悪口を聞かされて育った。大好きな母親から、大好きな父親の悪口を聞くのは子供心に複雑だったので、自分の感情に一旦蓋をして、母の怒りに寄り添う術を覚えた。摂食障害となった高校生からは、痩せることに固執する一方、過食と嘔吐が感情のはけ口となり依存することになる。大学4年生で就職活動に挫折すると、鬱になった。母親の顔色を窺う癖は一層強くなり、いつしか感情がわからなくなった。「嬉しい」「むかつく」といった“感情”は、「ここは喜ぶべきだろうか、悲しむべきだろうか」という“思考”によって自然発生を拒否される。どのように感じたら母が認めてくれるのかを無意識に最優先し、自分の感情を抑圧すると、生きていながら既に死んでいる心地が味わえた。


その頃、刹那的なセックスをした。私にとってそれは、男性に強く必要とされる行為だったので、求められることに存在価値を見出せた。しかし皮肉にも、生きる喜びどころか、セックスすると私はもっと死にたくなった。ただし、その理由が何なのか、空しさの正体を知ろうとする意欲すら失った日常の中で、初めて著書を読んだ。当時の私はきっと直子に光を見出したのだと思う。私も儚く美しい存在のまま、早くこの世界から消えて無くなりたい、と。


さて、死んだように生きた20代に二度の自殺未遂を経て、私は生き残った。今改めて著書を読むと、20歳の直子でなく、38歳のレイコさんに自分を重ねていることに気付く。レイコさんも又、心に傷を持った女性で、夫と子供と別れひっそりと生活していた。レイコさんは療養施設で直子の世話をしていたが、直子の闇に真摯に向き合う姿から、強く生きてほしいと望んでいることが窺えた。しかし、直子が自殺したとき、レイコさんは悲嘆せず、現実を受け入れた上でワタナベを心配する。彼には心惹かれている緑という女性がいながら恋を進展できずにいたからだ。レイコさんは、直子を見捨てるという“罪悪感”こそが、ワタナベを縛っていることに気付いていたのではないだろうか。だからこそ、レイコさんは「幸せになりなさい」と何度も助言したように思える。


私自身、この13年間に、“罪悪感ほど意味のない感情はない”ことを痛感した。結婚、妊娠、出産は、死への憧れを生への執着に変え、今の私には、嘗て死にたかった原因が強い“罪悪感”にあると理解できる。私はずっと、父親の愚痴を言っている母親に“罪悪感”を持っていた。“お母さんは、私という娘がいるから離婚できない。せめて愚痴を聞いて役に立とう。私は絶対お母さんを裏切らない。”罪悪感と使命感という原動力が大学生のワタナベと重なる。


しかし現実には、母親は離婚したければする。子供のせいで離婚できないのは親の言い訳に過ぎない。良くも悪くも私には母親の人生を変えられないと気付いたとき、私は自分の尊大さを自覚した。誰かの役に立つ人間だと過大評価していたから、誰かの役に立てない無力感を生むのだ。年齢と失敗を重ね、他人を救うことで自分を救おうとするのが勘違いだと実感した私は、「幸せになる努力をしなさい」と言ったレイコさんの言葉が刺さる。そして、“誰かに必要とされることで存在価値を見出そうとする依存”、或いは“死にたくなるセックス”を手放す勇気を得て、自分を幸せにする覚悟を決めた。


自分と他人の間に然るべき距離を置くことを自立というのではなかろうか。自立した人間は死に向かわないし、セックスに罪悪感を持たない。直子の死後、レイコさんは感傷的なワタナベを心配して彼の家を訪れ、セックスした。もうすぐレイコさんと同じ38歳を迎える私には、それが一般的な男女の性的欲求とは異なる、優しくて尊い自然な行為に映る。13年前、全く心に残らなかった最後のセックスに、今度は激しく心を動かされた。同じ小説に新しい解釈を付与するまで私が生きたことを純粋に感謝したい。夫、子供、母親、死にたくなるセックスをした男性を含む、全ての人に。


ノルウェイの森(下)
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