届く年賀状が、友人の子供の写真ばかりになってきた32歳の冬、私はまだ独り身だった。
子供は苦手、というより嫌いに近かった。
年賀状の子供の顔や名前もさっぱり覚えられなかった。
当時好きな人がいた。
彼は子供に関する事業を起業し、軌道に乗り始めていた時期だった。
私は彼に子供が大好きという嘘をついていた。
いずれ私も、年賀状の友人達のように彼と結婚して子供を産む。
それが私の「普通」の未来だろうな、とただ漠然と思っていた。
「普通」ではなくなったのは、彼が私の好きなものや嫌いなものに興味が無い事に気付いた時からだったのか、それとも彼の事業がうまくいかなくなった時からだったのか。
彼と私はお別れする事にした。
更に「普通」ではなかったのが、お別れした時には私のお腹に彼の子供がいた事だ。
子供嫌いな私が、これから1人で産み育てて行く。
不安しかなかったが、産婦人科でピコピコ動くミジンコみたいな心臓を初めて見た時に産もうと思った。
私のイメージしていた妊婦というのは、幸せの象徴であった。
それは間違いだと身を持って知るはめになる。
1人でベビー用品店に行くのは、幸せだねーとお腹を撫でられたり声をかけられたりするのは、とても辛かった。
胎教だとか、お腹に話しかけるとかする余裕は私には無かった。
ただ自分の好きな音楽をイヤホンで聴く時だけ、片方を自分の耳に、もう片方をお腹に当てていた。
ある秋の日、私は小さな男の子を産んで未婚の母となった。
産後の肥立ちが悪く、40度近い高熱でフラフラになりながら、期限ギリギリに出生届を市役所へ出しに行った。
市役所の人は笑顔で
「おめでとうございます。」
と言い、1つの封筒をくれた。
とにかく人と接したくなかった私は無言で封筒を受け取り、中身も見ずに逃げるように帰った。
子供と関わる事の無かった私は、何をしたら「普通」の子育てが出来るのかさっぱりわからなかった。
「普通」に結婚出来て出産し、子育てしている友人達にも頼りたくなかった。
子供向けの音楽や本など、私は持っていなかった。
私は産まれてまだ間もない息子に、自分の好きなジャズを聴かせたり、自分の好きな夏目漱石の本などを音読したりと、トンチンカンな「普通」ではない子育てをしていた。
息子はポカーンとして、ただ私を見つめていた。
この世に産まれてすぐに
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい…」
などと言われてもそりゃポカーンである。
心細さと慣れない子育てで疲れて、毎日毎日泣いた。
数ヶ月経ったある日、ふと市役所でもらった封筒を思い出して開けてみた。
中には一冊の絵本が入っていた。
動物が「いないいない」をして、次のページで「ばあ」とするシンプルで薄い絵本だった。
私は息子にただの音読ではなく、初めて読み聞かせというものをしてみた。
気恥ずかしく、自分からあまりに遠い行動で、私の初めての読み聞かせはめちゃくちゃ下手くそだった。
「い、いない、いない…ばあ…。」
今まではポカーン顔だった息子が
「キャハ!」
と声をあげて私の目を見て笑ってくれた。
私もやっと笑えた。
そしてまた泣いたが、今までの涙とは違った。
あれから、6年経つ。
お互いの好きなもの、嫌いなものを知り、自分とは違う部分も含めてお互いを受け入れられる人と出会い、結婚した。
夫は、私が今まで会った男性の中で一番対等で、一番息子が自然に懐いた人だ。
そして、私は去年のある秋の日、2人目の男の子を産んだ。
絵本はあれから何度も何度も繰り返し読んできて、もうボロボロになった。
息子と大事に修理しながら読んできた。
息子は私よりも上手に「いないいないばあ」を弟に読み聞かせしている。
そんな息子が、去年の母の日に初めて保育園で描いた絵が貼り出されるというので、感動の涙を用意して、見に行った。
母の日の絵には、どう見ても知らないオジサンの絵が描かれていた。
今度は私がポカーンとする番だった。
「あれ?ママの絵じゃないの?」
と息子に聞くと、
「その時はなんかオジサンの絵を描きたくなったから知らないオジサンの絵を描いたよ!キャハ!」
と息子は笑った。
感動に用意していた涙は爆笑の涙になった。
トンチンカンな所が私にそっくりな愛しい息子。
また私は「普通」に囚われるところだった。
私達は、自分達だけの家族を築いていけば良い。
歪な形でもトンチンカンでも。
そして、息子達も「普通」に囚われず、好きなものや嫌いなものをたくさん見つけて堂々と言える、自分だけの道を歩んでいけたらいいなと思う。
私はそのお手伝いをまたトンチンカンな方法でするかもしれない。
いつか嫌われたり疎まれたりする事もあるかもしれない。
それでも私はずっとあなた達のお母さん。
いろんな事に気付かせてくれてありがとう。
お母さんにしてくれてありがとう。
へその緒が切れた瞬間、私と息子達は別々の人生を歩き始めた。
さようなら、はじめまして。
いないいない、ばあ。