奨励作品 一万円

ひこうき

読んだ本・『国語辞典』三省堂

書いた人・平原 景子

来年、息子が小学生になる。
今通っている保育園から、「ことばの検査について」のお知らせの紙を貰った。

あぁ、懐かしいな、と思った。


私は子供の頃、いわゆる内弁慶というやつで、家ではおしゃべりだったが、外では無口だった。
馬鹿にされるのが嫌だったからだ。

小さい頃、私は「か行」が言えなかった。
どう頑張っても、「かきくけこ」が「たてぃとぅてと」になってしまう。

不運にも私の名前には、か行が2つもあった。
「けいこ」が「ていと」になる。
自分の名前もちゃんと言えなかったのだ。


そして、小学生になる頃の「ことばの検査」で引っかかった。
私は小学生になってもまだ「か行」が言えず、週に一度、国語の時間にクラスで一人だけ特別学級の「ことばのきょうしつ」へ通う事になった。

特別学級の「特別」が何を意味するのか、私はまだ知らなかった。

一学期が終わる頃になっても、夏休みが始まっても私は「ていと」のままだった。

私は一人っ子で両親は共働きだったので、夏休みは祖母の家に預けられる事になった。

祖母の家は田舎と呼ぶに相応しく、家の周りには森と畑と寺しか無かった。

縁側で日向ぼっこするには、夏は暑すぎて日は長すぎて退屈だった。

祖母も畑仕事で忙しかったので、私は一人、田舎特有の広くて古い家を探検する事にした。
そして古い本棚を見つけた。

そこには私が生まれた同日に亡くなったという、小学校の校長だった祖父の、教育に関する本がビッシリ並んでいた。

全部難しそうな分厚い本で、絵本や漫画など子供向けの本は一つも無くてガッカリした。

一つだけ小さな本があったので、退屈を持て余した私は引っ張り出して読んでみる事にした。

本の側面には、平仮名で「あ」から「ん」までの見出しがあった。

私は「か」と書かれている所を開いてみた。
私の苦手な「かきくけこ」で始まる言葉が沢山書いてあった。知らない言葉ばかりだった。

夏休みはまだまだ長い。

私は「あ」から順番に読む事にした。
「あいかわらず」
心の声ではちゃんと読めるのに、実際に声に出して読むと、
「あいたわらず」なのだった。

祖母が、その本は私の母が高校生の時に使っていた「国語辞典」だと教えてくれた。
そして私に
「その本をあげるから読んでみたらいいよ。」と優しく言った。

夏休み中、その本を読んだ。

学校ではまだ習っていない、初めて知る言葉ばかりで面白かった。

特別学級の「特別」の意味も知った。
「ふつうではないようす」

そうか、私はクラスの「ふつう」に話せる皆とは違うのだな、と思って少し悲しくなった。

祖母にその事を言うと、
「特別には他の意味もあるよ。他のものよりも大切っていう事だよ。ばぁちゃんにとって景子ちゃんは特別だよ。」
と優しく私の頭をなでて教えてくれた。

祖母は私が上手く話せないのを、学校の先生みたいに急かしたり、ため息をついたり決してしなかった。


夏休みも後半に差し掛かった頃、私は祖母が畑仕事をしている傍らで、国語辞典の「ひ」の所を読んでいた。

夏の空は高く晴れていて、澄んだ青空には白い綿菓子みたいな雲がかかっていた。

蝉の合唱の中を、キーンと一つの高い音が聞こえた。
白い小さな物体が一筋の雲を連れて、青空をゆっくり渡っていた。


私は余りに綺麗な風景に見とれ、ちょうど国語辞典で読んでいた事も重なって、その物体を無意識に指差して叫んだ。

「あ、ひこうき!」


その時祖母が畑仕事の手を止めて、飛行機ではなく私の方を見た。

なんで私を見るのかな?と一瞬不思議に思ったが、私もその理由にすぐ気付いた。

私は確かに「ひこうき」と言ったのだ。

試しに自分の名前を言ってみた。

「けいこ。けいこ、けいこ!」

祖母と笑い合って、高く高く飛んで行く飛行機を二人で見送った。


まだあの時の国語辞典は私の一番の愛読書だ。

でも言葉は時代と共に増え、変わっていく。

私は何十年かぶりに、あの時読んでいた国語辞典の最新版を買ってみた。
「キター!」や「婚活」など昔の国語辞典には載っていなかった現代的な言葉が掲載されていて、言葉って面白いなと笑った。


大好きな優しい祖母は十年前に亡くなってしまったが、言葉と優しさを私は受け継いでいる。

今度は私が息子に言葉の沢山の意味を教えていく番だ。

「ひこうき」という一つの言葉に、私と祖母の優しい思い出があった事もいつか教えてあげようと思う。


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