入選作品 五千円

こちらヒューストン

読んだ本・『かもめのジョナサン』リチャード・バック

書いた人・井上

  十三号、こちらヒューストン。もしかすると、一羽のかもめがそちら側から見えるかもしれない。恐ろしく速い、曲芸飛行をかます奴だ。多分そちらの慰みもの程度にはなるんじゃないだろうか。そいつは長い間、他の鳥類連中の群れから虐げられ、疎まれてきた。そりゃそうさ、誰だってパンの為、心地よい眠りを得るために海面すれすれを飛ぶんだからな。いつだってかもめ達は、そのことを精一杯続けてきた。 

 しかしだな、聞いてくれよ。いつだったかな、確か半年前ぐらいの話だ。可愛くて、世界一美人で世界一やかましい嫁が言うんだよ。このままじゃ健康に悪いって、ただでさえデスクワークなんて健康の敵でしかないんだから、たまには外を散歩してみたらって。そんな感じのこと。俺はその時、耳栓を持ってる訳でもなかったから、仕方なしに外に出た。長い距離を歩く訳じゃなかったから、サンダルを履いてさ。恥ずかしい話、結構いい気分転換にはなった。あいつにはそりゃ――ああ、あいつってのは嫁のことだよ。あいつにはそりゃあさ、正直には言わなかった。だって俺のプライドが傷つくし、何より、まあダサいだろ。と言う訳で俺は、何食わぬ顔をして、まるで心境の変化なんてなかった、一歩進んで、一歩と半歩後ろに下がったって感じの顔で、家に帰って来たんだ。

 待った、切るなって。ここからなんだ、本題は。俺の本当に言いたいことは、この先からやっと始まるんだ。いいか、俺は散歩から帰ってきて、あいつには何も話さなかったんだよ。この話さなかったことってのは、良い気分転換になったってことだけじゃなかったんだ。もう一つ、あったんだ。とんでもない奴がさ、いたんだ。

 俺は別に散歩のコースなんて決めてなかった。だから適当に国道沿いの道をほっつき歩いてたんだ。道中に落ちてあった石ころを何気なく蹴って、傍を通ってた溝川にその石が落ちたんだ。思えばこの石ころがちょっとでも向きを変えてれば、俺の人生は何も変わっちゃいなかった。川面にさ、映ったんだよ。物凄い速さで飛ぶ鳥が。それからは一瞬のことだった。そいつの残した飛行の跡から、俺は何もかもを知ったんだよ。例えば俺たちは、あんな風に飛ぶために、今まで何をしてこれたのかとか、どうして自分を疑わなかったのか、俺たちは俺たちが思ってる以上に、「自由」の中を飛べるんじゃないかって。それとその鳥がかもめだったってことと、そのかもめの辿ってきた物語とか、そんなことだよ。

 分かってる、俺がお前に引かれ始めてるってことも何となく分かってる。そんな感じで、あいつも「飛ぶ」ことに対して一途だったんだ。でも俺はなんかさ、信じ始めてるんだ。いつか、いつかだよ。あのかもめみたいに「飛ぶ」ことを続けていれば、呼吸することを続けて入ればさ、いつか俺たちは救われるはずだし、まあそれがどんなに滑稽に見えようがさ、そうあるべき場所に向かうはずなんだってことをさ。そこには同じように苦しんで、悩んだ奴らがいて、故郷に帰ろうと必死になってるやつもいて……要するにだ、あれは偶然なんかじゃなかった。あんなかもめ――いや、人間も、見たことがなかった。あの鳥は俺たちに、何か重要な、忘れかけていたようなことを、けれどついぞ思ってもみなかったようなことを、教えてくれたんだよ。分かるかい?

 ここまで話を聞いてくれたのは、まあ、ありがとうな。びっくりしたよな。今の俺だってあのかもめと同じように「キチガイ」だとか、「狂ってる」なんて思われても当然だからさ。それでも俺は、話せて良かったと思ってる。後悔なんてそりゃあしてないさ。

 俺はこの一匹の……なんつったかな、ジョニーだかジョンだか、そういう名前のかもめのことを、誰かと共有したかったんだよ。暇つぶしに通信を試みたのはその為と、お前の方からなら、そのかもめの姿が見えるんじゃないかって、馬鹿みたいに思ったからだよ。こうしている間にも、飛翔の跡とか、そっちから見えたりしないかな。限界なんてとうに超えてる速さで、テレポートしてるみたいに見えるかもしれない。楽しそうに急降下、急上昇して、緩横転、頂点で横転宙返り。

 ああ、思い出した。思い出したって、そう、かもめの名前。『ジョナサン』だったよ。


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