ずっと気になっていた。
本屋で見かける度、何度か手に取った。
本と音楽は似ている。
起承転結があったり、ストーリーがあったり。
好きな作者の本にも、しばしば音楽は登場する。
音楽を聴くのは好きだ。
文字通り音を楽しむだけの。
ジャズから流行りの曲、クラシックまで幅広く聴く。
いい曲だな、とか本の雰囲気に合うな、とかはわかる。
ただ、コード進行とかクレッシェンドがどうのこうのとか基礎的な事を言われると途端に音楽は私から遠のく。
私は行間を読んだり、文章を理解するのは得意だ。だけど、絶望的に音の基本的な理解力が欠如している。
中学生の時の苦々しい思い出が蘇る。
私は音楽の授業が大嫌いだった。
正確には音楽の女性教師が嫌いだった。
特定の男子にだけ、あからさまに贔屓をする厚化粧の高慢な彼女はみんなから嫌われていた。
1人ずつみんなの前に出し、ピアノを演奏させては厳しいダメ出しをする教え方も嫌いだった。
贔屓されていた男子生徒は、ピアノを習っていたので当然演奏も上手だった。
しかも彼は絶対音感を持っていたのか、ピアノの音だけでなくあらゆる音を音階で答える事が出来た。
ある日私はクラス平均80点を超えた音楽のテストで、自分史上最低の10点を取った。
ピアノの音を聴き取り音符に記す問題や、音符や記号の名前を答える問題だった。
自分なりに真剣に解いたつもりだった。
どうしたらそんな低い点数が取れるのか逆にスゴイとみんなに言われ、私はもうギャグにして笑いを取るしかなかった。
それから女性教師は、まず明らかに音楽が苦手な生徒(もちろん私を含む)を当てて、答えられないとため息をついて、最後に贔屓している男子生徒に答えさせて「ブラボー」だの「みんな拍手」だの毎回茶番を演じるようになったので馬鹿馬鹿しかった。
みんなそんな授業に嫌気がさしてきたのか、徐々にイタズラをするようになった。
チョークを隠したり、教室に鍵をかけたり、わざと小さな声で歌ったり。
その度に女性教師がワナワナとなるのが面白かった。
ある日、みんなで打ち合わせして、授業の最初に毎回する発声練習の「アーアーアーアーアー」と言う時に「あーつーげーしょーうー」と言おうという事になった。
私はワクワクした。
女性教師が教室に入り、いつものように優雅に得意げに、そして真剣な表情でピアノの前に座った。
みんなクスクス笑いながら目配せをした。
「では、みなさん、今日も発声練習いきますよ、アーアーアーアーアー!」
「あーつーげーしょーうー!」
ピアノの音が虚しく響き、余韻を残して次の瞬間、教室はシーンと静まり返った。
声を出したのは、私1人だったのだ。
一瞬、意味がわからなかった。
なんで?みんなで言うんじゃなかったの?
女性教師はワッと泣き出し、教室を飛び出して行ったきり帰ってこなかった。
みんなはドッと爆笑した。
私だけは笑えなかった。
屈辱と怒りが湧いてきた。
みんなの目配せには二重の意味があったのだ。
女性教師をからかう事。
そして特に目をつけられていた私1人にその役目をさせる事。
「やってくれると思ったよ。笑い取れたね。」とクラスメイトは私に言った。
私は咄嗟に笑顔を作り、「笑いを取るいつものおどけた私」を演じた。
私は職員室に呼び出しをくらい、2時間正座させられた。
それ以来、授業を思い出すような音楽の基礎的なものは避けてきた。
ただ聴いて楽しむだけ。
だから、音楽が詰まったこの本もなかなか買えなかった。
それでも、読んでみようと思ったのはこのサイトでこの本の読書感想文を読んだからだ。
私の苦い思い出を上回る臨場感溢れる素晴らしい文章に魅了された。
ピアノを弾ける側の人間の気持ちを知りたくなり、本屋へ買いに走った。
あの女性教師はピアノの前ではいつも真剣だった。やり方は多少ズレていたかもしれないが、音楽を生徒達に教えようと必死だったと思う。
本の中に
『自分と立場を異にする者を悪と断じること自体が悪意』
『全ての闘いは詰まるところ自分との闘いだ』
とあった。
人にはそれぞれ才能という武器がある。
女性教師と私はそもそも、武器も闘う場所も違っていただけだ。
音楽を避けていた理由をずっとあの女性教師と裏切ったクラスメイトのせいにしてきた。
でもそれは私自身の問題だった。
音楽から逃げ、あの時の自分の気持ちから逃げ続けた。
読んだからといって、私の音楽への理解力が高まった訳ではないし、女性教師やクラスメイトを肯定する訳でもない。
でも、音楽と文章が綺麗な旋律を奏でるこの本のおかげで心のしこりが緩やかに溶けていくのを私は感じた。
私の世界に新しい音楽がやってきた。
さよならコンプレックス。
ありがとうドビュッシー。